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一里塚のエノキ(いちりづかのえのき)

 一里塚は、江戸時代に全国の諸街道に一里ごとに土を盛り、マツやエノキなどを植え、里程(りてい)の目標にしたもの。これを当時は「里堠(りこう)」と呼び、そのエノキなどを「堠樹(こうじゅ)」と呼んだ。
 備後国を東西に横切った旧西国街道は、備中国高屋村から尾道坊地峠まで約7里(28キロメートル)あり、一里塚は旧上御領村、平野村、中津原村、山手村、赤坂村、今津村、高須村の7カ所、いずれも標識としてエノキが植えられていたが、現存するのはこのうち旧山手町(福山市)の1ヵ所だけとなった。
 エノキは落葉高木、春から秋にかけては深く葉が茂り合って日陰をつくり、冬にも葉を落した枝々が空を突刺すような姿で立つ。その「里堠」は旅人の目印になるばかりでなく、手頃の休み場所にもなった。神辺・廉塾(れんじゅく)の漢詩人、菅茶山の旅の詩にも「堠樹」を詠み込んだものがある。
 しかし、一里塚の役目も時代とともに過ぎ去り、辛うじて残った1本も宅地化の波に今にも呑み込まれそうな状態である。
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