文化をめぐる−広島県の文化資源−

ブンカッキーネットへ

Windows Media Playerを入手するAdobe Flash Playerを入手する

本サイトを最適な環境でご覧いただくためにはMicrosoft Windows Media Player Adobe Flash Playerが必要です。

広島城跡(ひろしまじょうあと)

 戦国時代、中国地方9ヵ国の大領主となった毛利氏は、高田郡吉田(現安芸高田市)の郡山(こおりやま)城を本拠地としていたが、天正(てんしょう)17年(1589)輝元(てるもと)の時に太田川の三角州(す)に築城を始め、同19年(1591)に入城した。毛利氏は、関ケ原の戦で敗れた西軍に属していたので、減封され防長2国の領主となった。代わって入城した福島正則(ふくしままさのり)は、城郭整備に熱心であったが、このことが武家諸法度(ぶけしょはっと)へ触れたという口実で、川中島(長野県)へ改易された。ついで城主となった浅野(あさの)氏は、明治初年まで広島藩の拠点とし、城下町を経営した。
 近世中期の規模は、本丸は、東西九十五間、南北百二十間、五重天守(てんしゅ)の高さ十七間六尺、三重小天守二、各種の櫓(やぐら)二十三。二の丸は、東西四十三間、南北二十五間、櫓五。三の丸は、東面二百五十間、西面二百七十間、南面二百八十五間、北面は濠、櫓十七。外郭(大手)は、東面八町三十間、西面十二町、南面六町、北面六町三十間、櫓四十三。その他門二十一であった(『広島藩御覚書』)。(一間は約1.818メートル、一町は約109.091メートル)
 明治維新により天守閣と主要門、袖櫓(そでやぐら)を残して解体された。その残存建物も原子爆弾により破壊または炎上した。現在の天守閣は、昭和33年(1958)に再建されたものである。
2_1_01007.jpg

前のページへ戻る