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石泉文庫及び塾・僧叡の墓(せきせんぶんこおよびじゅく・そうえいのはか)

 石泉(僧叡の雅号(がごう))は、江戸時代の中期宝暦(ほうれき)13年(1763)山県郡戸河内(現安芸太田町)の真教寺に生れた。
 幼少の頃より読書を好み、学徳を修め、16歳の時京都へ行き、本山の学林に学び、特に天台の学に通じたが、安芸国に帰り、20歳で高田郡船木村(現安芸高田市)の専教寺、39歳で賀茂郡川尻村(現呉市)の光明寺にそれぞれ数年間住職として勤行のかたわら、読書に熱中した。
 寛政(かんせい)年間(1789〜1801)広村(現呉市)の多賀谷(たがや)氏は、石泉のすぐれた学徳をしたって、この地に居宅と書庫を建てて招いた。石泉はここで多くの著述を成し、全国から集まる子弟の教育に当たり、文政(ぶんせい)9年(1826)63歳で没した。
 墓は塾の北隣に建っている。村の人々も塾の維持保存に努めたので、建物と2260巻の蔵書はともに、創設以来の状況を伝えている。
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