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御手洗港(みたらいこう)

 瀬戸内海航路は、中世までは山陽沿岸を通る「地乗り」であったが、近世に入ると内海中央部を航海する「沖乗り」が発達した。寛永年間(1624〜44)には大崎下島(しもじま)東端の農耕地で一筆の屋敷もなかった御手洗には、その航路の要衝にあたり、風を防ぐ絶好の地形とあいまって、多くの船が寄港するようになった。当初は同島大長(おおちょう)村(現呉市)の人々が、野菜、薪(たきぎ)、水などを売っていたが、次第に来住し、寛文(かんぶん)6年(1666)に村民による「町割嘆願」が許可され、本格的な港町への道を歩み始めた。
 寄港船は、オランダ、中国などの外国人をのせた船、琉球王の使者船、長崎奉行など幕府役人の船、九州、四国の参勤交代の大名の船、西廻(にしまわ)り海運の廻船(かいせん)と多様で盛況を極めた。他国商品の中継(なかつぎ)商業の役割も担った。シーボルトも文政9年(1826)江戸からの帰途立ち寄った。
 このため港湾施設の整備には格別力を入れ、内港、外港で数百の船を停泊させることのできる中国第一の港と言われた。また、茶屋などの施設も繁栄し、春秋2回の芝居興行も盛大であった。
 港の景観、路地に面した落ちついた町並み、伝説を留める寺社や史跡などかつての港の賑いの面影を伝えている。
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