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小早川氏城跡
(こばやかわししろあと)
源平合戦の功により沼田荘地頭職(ぬたのしょうじとうしき)に補任(ぶにん)された土肥(とひ)(小早川)遠平(とおひら)の養子景平(かげひら)は、13世紀初頭、長男茂平(しげひら)に沼田本荘の、次男季平(すえひら)に同新荘の各地頭職を分与した。茂平は一族とともに来住し、本郷塔(とう)の岡(おか)付近に居館を構え、背後に高山(たかやま)城、対岸に新高山(にいたかやま)城を築いた。
高山城は、沼田川東岸標高約190メートルの広大な山頂にあり、北の峰には西から北の丸、二の丸、本丸、南の峰には西から出丸(でまる)、権現丸(ごんげんまる)、イワヲ丸、南丸、出丸などがあった。応仁の乱の西軍の包囲や天文年間(1532〜55)の尼子氏の攻撃を凌(しの)いでる。
天文21年(1552)隆景(たかかげ)は、副塁であった新高山城へ本拠を移した。本丸、東の丸、中の丸、西の丸、北の丸、井戸の郭(くるわ)、匡真寺(きょうしんじ)、鐘の段などがあり、平常の生活が山上で営まれていたとみられている。
三原城は、隆景が三原湾に浮かぶ大島、小島を繋(つな)いで築いた海城で、浮城(うきしろ)とも言われた。永禄10年(1567)に形ができたが、完成したのは慶長元年(1596)とされる。東西約1.1キロ、南北約720メートルである。近世には福島氏、浅野氏の支城となった。
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