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本庄重政の墓(ほんじょうしげまさのはか)

 近世以来、瀬戸内海を代表する製塩地として栄えた松永(まつなが)も、塩田は市街地化し、その面影を留めるものを日々失っている。
 万治(まんじ)3年(1660)、本庄重政が、神村(かむら)、柳津(やないず)村(現福山市神村町 柳津町)沖の干拓に着手し、寛文7年(1667)塩田築調工事は完成し、製塩が始まった。この年に幕府の許可をえて「松永」と命名した。
 松永の塩田の規模は、古検(水野検地)では39町6反余(約39.6ヘクタール)、元禄(げんろく)13年(1700)の備前検地では56町4反余(約56.4ヘクタール)であった。この頃の軒数は50前後が記されている。当時としては最新の入浜(いりはま)塩田の技術によったので生産性が高かった。販路は北国筋が中心であった。明治11年(1878)の場合、松永塩の販売高83466石余の約9割にあたる7600石余を北国筋へ積出している。松永塩田は、昭和34年(1959)に流下式(りゅうかしき)に転換したが、翌年は廃止された。
 松永の東部の山腹にある臨済宗承天寺は、重政の菩提寺であり、一時福山城内に移っていたが、松永新涯(しんがい)完成後の寛文8年(1668)に重政が移建した。その墓地に眠る松永塩田の創始者は、松永の変貌を見守り続けている。
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