広島県の文化資源画像

神辺本陣跡(かんなべほんじんあと)

 神辺の宿(しゅく)の本陣は、三日市の尾道屋菅波(すがなみ)家(西本陣)と七日市の本荘屋(ほんじょうや)菅波家(東本陣)が勤めた。寛文年間(1661〜73)に尾道屋が筑前(ちくぜん)黒田家の本陣を勤めてからは、同家専用の本陣になったといわれ、一般には黒田家以外の本陣を本荘屋が勤めたとされる。
 天保3年(1832)西本陣の規模は、敷地4反5畝余(約45アール)、棟数27、土蔵6、湯殿6、門3、間数21、畳数200余枚であった。当主の記録『信道一代(しんどういちだい)記』によると嘉永(かえい)7年(1854)4月26日には、黒田家の者1500人を町屋への分宿を含めて泊めている。
 現在神辺本陣と呼ばれるものはその西本陣で、屋敷と主要建物を残し、往時を伝えている。延享5年(1748)建立の本屋は、御成(おなり)の間、上段の間、三の間、札(ふだ)の間、玄関、敷台などからなり、札の間には、投宿時に門前に掲げた木札多数を残している。天保2年(1831)の住居の背後には馬屋がある。安政(あんせい)2年(1855)の正門を中心に、木造瓦葺きの塀が屋敷を囲み、景観を整えている。
 東本陣は、明治期にほとんど解体され、面影を失った。
2_1_06012.jpg

前のページへ戻る