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芸防の渡し場跡(げいぼうのわたしばあと)

 西国街道(さいこくかいどう)は、小方(おがた)から山中を通って木野(この)に至る。ここに渡し場が置かれ、国境をなす木野川を渡って周防(すおう)の小瀬(おぜ)に着き、岩国に入った。『佐伯郡廿ヶ村郷邑記(にじつかそんごうゆうき)』によると、木野村(現大竹市)の渡し場のつなぎ石(いし)は、元和(げんな)10年(1624)に調(ととの)うとある。昭和57年(1982)に渡し場付近を試掘したところ、西国街道に接続する石敷護岸道路の端から、石段と石敷スロープが発掘され、当時の遺構とみられている。 
 当時の渡しは、舟渡しの所で幅十二間(約22メートル)、深さ四尺五寸(約1.4メートル)、徒歩渡りの所で幅十二間、深さ二尺(約61センチ)であった。渡舟の経費は芸防両国が折半で負担し、芸防3人づつが昼夜三交替で詰めていた。また一説によると、渡舟は1隻(せき)で、木野村では農民が常時一昼夜交替で勤めたが、小瀬村(現山口県岩国市)では常勤3人で勤めていたといわれている。
 明治になり、宿駅、伝馬の制が廃止されると地元民の渡舟営業となった。大正10年(1921)に両国橋(りょうごくばし)が架設されたのをはじめ架橋が各所にみられるようになり、渡しは姿を消した。  
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