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吉川氏の遺跡(きっかわしのいせき)

 吉川氏は、中世において、芸北地方で活躍した。駿河丸(するがまる)城は、大朝盆地の北側寒曳山(かんびきやま)南麓の丘陵上にあった居館的な城である。正和2年(1313)吉川経高(つねたか)が駿河国吉川邑(むら)(現静岡県清水市)から来住して築いたといわれている。本丸、二の丸などの郭(くるわ)の背後に空堀(からぼり)を切り、馬蹄形(ばていけい)に土塁を巡らしている。南北朝末期経見が本城を小倉山(おぐらやま)城に移した後も一族の居城として続いていた。
 小倉山城は、新庄(しんじょう)盆地の北側の丘陵上にあり、新庄、大朝両盆地や石州(せきしゅう)への交通路を見下ろす要衝の地を占めている。山頂の本丸を中心に、山上、稜線(りょうせん)の要地を削平して郭を設けた要害であった。山麓の菩提所西禅寺(ぼだいしょさいぜんじ)の屋敷跡は水田化しているが、小堂を残している。
 新庄盆地の南の日野山(ひのやま)へ築いた日山城へは、天文19年(1550)元春(もとはる)が入り、天正19年(1591)広家(ひろいえ)が出雲富田(とだ)へ移るまでの間在城し、本拠とした。山頂部に本丸、二の丸など7群10郭を有する中世末期の典型的山城である。南麓の海応(かいおう)寺(豊平)にある元春(もとはる)の館跡(やかたあと)は、東西約120メートル、南北約80メートルの屋敷跡で、高さ約3メートルの巨岩による石垣がみられる。菩提所万徳院(まんとくいん)跡も旧規を留めている。この他吉川氏ゆかりの寺院跡など残る。 
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