文化をめぐる−広島県の文化資源−

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今高野山(いまこうやさん)

 大田荘は現在の世羅郡の大部分を荘域とし、建久(けんきゅう)元年(1190)には見作田(けんさくでん)613町6反60歩(約613ヘクタール)という大荘園であった。文治(ぶんじ)2年(1186)後白河(ごしらかわ)法皇は、当荘を紀州(和歌山県)高野山金剛峯寺根本大塔領(こんごうぶじこんぽんだいとうりょう)として寄進した。高野山は翌年に鑁阿(ばんあ)を預所(あずかりどころ)として現地へ派遣し、約8年間支配にあたらせた。この間に真言密教(しんごんみっきょう)の権威を背景とした支配の拠点として今高野山を構えた。高野山は遠隔地ではあるが、得分(とくぶん)の多い当荘を重視して、実力のある僧を預所に派遣した。鎌倉中期の預所渕信(えんしん)の活躍はよく知られている。鎌倉末期になると武士勢力が伸長し、今高野山の力は相対的に低下してきた。天正年間(1573〜92)には子院(しいん)12のうち8院が廃されて、安楽院(あんらくいん)、金剛寺(こんごうじ)、福智院(ふくちいん)、成道院(じょうどういん)の4院が残るのみとなった。
 世羅町甲山の市街地の南側の山麓にある今高野山には、室町時代の総門を入ると、参道の両側に12の子院の遺構がある。そこに安楽院(移建されている)と山門(さんもん)、鎮守粟島(あわしま)神社の小鳥居、福智院の本堂が残る。参道を直進し終わったところに高野(こうや)、壬生(みぶ)両明神が鎮座し、右手の石段を登ったところに観音堂と御影堂(みえいどう)が並び建つ。広大な寺域の落ちついたたたずまいは、中世の繁栄を伝えている。
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