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御手洗港と沖乗り航路(みたらいこうとおきのりこうろ)

 中世には、沿岸沿いを航行する「地乗り」が盛んであったが、近世になると、木綿帆の普及など造船・航海技術の発達を契機として「沖乗り」(中乗り)が開けた。寛文12年(1672)、河村瑞賢(ずいけん)による西廻りの航路の開発の結果、日本海と大坂・江戸の間では、瀬戸内海を通って物資が大量に流通することとなり、「沖乗り」の果たす役割は極めて大きいものとなった。
 「沖乗り」航路の発展につれ、航路の要衝に新しい港町が形成されていった。その代表的なものが御手洗(みたらい)である。寛文6年(1666)、藩から耕地を屋敷地とすることが許され、町割りは急速に進んだ。近世港町の繁栄を物語る港と町並み、それにかかわる伝説が今日に残っている。なお近世の御手洗は、大長(おおちょう)村枝郷であった。
 若胡子屋(わかえびすや)は、数多い公認茶屋の1つで、常時99人の遊女を抱えるほどの盛況であった。しかし、それは女性を犠牲にした悲しむべき遊興施設でもあった。豪商であった多田家住宅は、風雲急を告げた幕末期に、長州藩と通じた三条実美(さんじょうさねとみ)ら少壮公卿が止宿したことから、「御手洗七卿落遺跡(しちきょうおちいせき)」と呼ばれている。
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