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神辺宿(かんなべじゅく)

 神辺は中世から近世初期にかけては、神辺城を中心とする城下町であったが、元和5年(1619)に水野勝成が福山に築城して移って以後は、江戸幕府の参勤交代の制による交通路の整備などにより宿場町として息を吹き返した。
 近世の山陽道は、正式には中国路といわれ46宿から成り、神辺宿は備中高屋宿と備後国今津宿の間の宿として発展した。宿場の中心となったのは現在の川北・川南の地域で、そこには三日市・七日市・十日市などが営まれており、人馬がしげく往来し、大名の宿泊する本陣として川北には東本陣が、川南には西本陣(現在の県重要文化財・史跡神辺本陣菅波家)は設けられるなど、神辺は山陽道の宿駅としての体裁を整えるとともに、街道を上り下りする人々で大いににぎわった。江戸時代末期の文人として知られる菅茶山のもとにも、この道を通り頼山陽、古賀精里、浦上玉堂、田能村竹田、伊能忠敬などの多くの文人墨客が訪れており、神辺の文化的な風土は、この山陽道を通じて培われたといえるかも知れない。
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