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御手洗七卿落遺跡
(みたらいしちきょうおちいせき)
御手洗(みたらい)は、近世初めに「沖乗り」航路が開発されてから、急に脚光を浴びるようになった港町である。
幕末の頃、三条実美(さねとみ)ら7人の少壮公卿(くぎょう)は、長州藩と結んで「攘夷(じょうい)親政」をはかろうとしたが、孝明天皇の受け入れるところとならなかったので長州へと下った。元治(げんじ)元年(1864)、京都の状況が好転したとの情報を得た実美ら(このときは5人)は、上洛(じょうらく)の途についたが、讃岐(さぬき)の多度津(たどつ)まで来た時に、蛤御門(はまぐりごもん)の変で長州勢が敗れたことを知り、再び長州へと向かった。
7月22日には、鞆(とも)の保命酒(ほめいしゅ)の本舗中村家、次いで23日は、御手洗の多田家に泊まり、24日朝、上(かみ)の関へ向かったのであった。
七卿館(多田家住宅)は、木造2階建て、入母屋造り、本瓦葺きの建物で、島嶼(しょ)部の家としては大きい方である。かつては、御手洗の東端の景勝の位置にあったが、埋め立てなどによって往時の面影は次第に薄らいでいる。幕末期の政治動向を示す遺跡として、県史跡に指定されている。
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