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鞆の町屋と土蔵群(とものまちやとどぞうぐん)

 「海岸は半月の状に円みをなし、それに沿いて美事に布置されたる長き町通りには、二三百の粗末とは見えぬ家々ありて、其間に一個の丸山即ち花街と、二個の美しき寺あり、此処にては屋床に敷く畳の甚だ佳きを最も多く製して、諸国に輸出す」。これはドイツ人ケンペルが、江戸時代初期にオランダ領事館の医師として日本に滞在中に著した「日本誌」の、鞆の状況を記した一節である。
 鞆は古くから瀬戸内海航路上の潮待ちの良港として栄え、物資の往来が盛んとなる鎌倉時代以降においては、物資の集散する経済活動の拠点としての性格も、合わせ持つようになった。それは江戸時代の鞆にも受け継がれ、城下町福山の外港として、ケンペルが記しているように、領内の物資を藩外へ移出するのみならず、北前船の寄港により、北国や上方の物資の交易港として繁栄した。港の雁木(がんぎ)沿いには船問屋、商家やその土蔵が軒を接して並び、それらを含んだ町が、北から原町・鍛冶(かじ)町・石井町・関(せき)町・道越(みちごえ)・西町・江(え)の浦・平町と形作られた。その眺めは「日本誌」のとおりであったろうが、今は西町の一角、県史跡鞆七卿落(しちきょうおち)遺跡を中心とした地域に町屋・土蔵群・常夜燈・雁木など、かつての港町鞆の面影を残している。
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