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頼杏坪役宅(らいきょうへいやくたく)

 巴(ともえ)橋から古い三次の町筋を進んでいくと三次小学校に至る。小学校の北側あたりは、今はその面影はないが、享保(きょうほう)5年(1720)まで続いた三次藩時代の屋形がかつて立ち並んでいたところで、館内と呼ばれていた。その旧館内の1画に、塀で囲まれた茅葺き屋根の頼杏坪役宅(県史跡)がある。
 頼杏坪は、竹原に生まれ、大阪、江戸で儒学を学び、兄春水(しゅんすい)とともに広島藩に仕えた。50歳を過ぎ、文化10年(1813)に三次郡・恵蘇(えそ)郡の代官となり、文化13年には奴可(ぬか)郡・三上郡の代官も兼ね、文政11年(1828)までそれらの代官を務め、文政11年から3年間三次町奉行となった。この間、彼は、郡村の実情に即した政治に心掛けて民政に尽くした。また広島藩の代表的な地誌である『芸藩通志』の編集の中心的役割も果たしている。
 役宅は、彼が三次町奉行時代に住んだところで、運ぺき(うんぺき)居と称されていた。運ぺき居の名は、昔中国広州の陶侃(とうがん)という地方役人が、自らの怠惰をいましめるため、朝夕100枚の敷瓦(しきがわら)を運んだ故事にちなんだのである。2畳の書斎や庭の松の古木が当時のまま残っており、今もその簡素なたたずまいをしのばせている。
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