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熊野神社宝蔵(くまのじんじゃほうぞう)

 「校倉(あぜくら)」の文字の初見は、承平(じょうへい)5年(935)に成立したと思われる「倭名類聚鈔(わみょうるいじょうしょう)」の「校倉、蔵穀物也、阿世久良」とあるのにおいてであろう。熊野神社の宝蔵は、県内に3棟あるその校倉の1つである。創建時期についてはつまびらかでないが、校子(あぜこ)の形状などから室町時代末期であろうと思われる。熊野神社は、明治時代初期までは若一王子(にゃくいちおうじ)権現と称し、中世には背後の山頂の比叡尾(ひえび)城に拠(よ)っていた三吉氏の崇敬を受けていた社である。今も神社には弘治(こうじ)2年(1556)、天正(てんしょう)8年(1580)の紀年銘とともに、三吉致高・隆亮の名を記した金工品が所蔵されている。宝蔵の創建もその頃のことであろう。
 社伝によると、古くは社殿も校倉造りであったが、後にその様式を改めたので、かつての社殿の姿をとどめるために、宝物殿(ほうもつでん)を校倉造りにしたといい、宝蔵には珍しく向拝(ごはい)があるのはそのことに由来するのかも知れない。珍しいといえば、斗栱(ときょう)間の枇杷(びわ)板に、今ははなはだしく剥落(はくらく)しているものの、絵を描いていることは他に例を見ない。その枇杷板に筋傷がついているのは、胡粉(ごふん)の付着をよくするためであろうか。中央の蛙股(かえるまた)のある所に力士像があるのも珍しい。
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