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法円寺の三菱窟(ほうえんじのさんりょうくつ)

 三菱窟の名は、法円寺に移築後につけられたもので、この建物は元は浅野家本館の一部であった。吉田の町は、近世においては出雲街道の宿駅としての性格をもって成立していたが、幕末動乱期の文久3年(1863)、浅野家の分家である青山内証分家浅野長厚が吉田に陣屋を構えることを命じられた。当時反幕府勢力の1つ長州藩の動きに対応するもので、長州藩の郡山城跡占拠の噂(うわさ)が流れていたともいう。陣屋は、現在の吉田高校・吉田小学校・吉田保育園の郡山城跡南麓に構えられたが、5年後には明治維新を迎え、建物は破壊または売却された。
 三菱窟は、その陣屋の馬見櫓(やぐら)と伝え、浄土真宗の学問僧として著名な法円寺住職霊山諦念師が払い下げを受け、その学問所として用いていたという。屋根は茅(かや)葺きであったのを銅板葺きに改められているが、三菱窟の名のように部屋の形はもちろん畳から炉などすべてが菱形(ひしがた)であり、今は茶室として使用されている。このような形になった理由としては、敷地の形に合わせた、旗印をかたどったともいわれるが、いずれにしろ江戸時代最後の大名陣屋の遺構であり、特異な意匠の茶室として価値ある建物である。
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