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多家神社宝蔵
(たけじんじゃのほうぞう)
「校倉(あぜくら)」というと、正倉院を連想することが多いが、この宝蔵も校倉造りである。もとは広島城三ノ丸にまつられた稲荷社であったので向拝(ごはい)がついており、明治初年(1868)に浅野氏から多家神社に寄進された。創建は、江戸時代初期の浅野氏が広島へ入封した当時と伝える。
日本国内には、現在30余棟の校倉が伝存し、広島県内にも当社のほか、厳島神社宝蔵(宮島町=室町時代初期)、熊野神社宝蔵(三次市=室町時代末期)がある。いずれの校子(あぜこ)の厚さも奈良・平安時代のそれよりも薄いのは、時代相応で共通した点であるが、ただ多家神社の校子の断面は、他と異なる珍しい形状である。正倉院をはじめとして厳島・熊野神社宝蔵ともに、その断面は三角形で、その稜線部が外壁に表れているのであるが多家神社のそれは四角形、それも算盤珠(そろばんだま)状をしており、内外壁ともに稜線部が表れている。このような校子を持つ校倉は他に例を見ず、「信貴山縁起絵巻(しきざんえんぎえまき)」の「飛び倉」の図に見えるのみである。この宝蔵の構造が世に知られるまでは、この図はまさに絵空事と思われていた。
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