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至竹原
(たけはらにいたる)
至 竹 原
吾 家 宿 昔 読 書 山
紫 翠 依 然 窓 几 間
愧 使 京 塵 染 鬚 面
帰 来 却 対 旧 弱 顔
文政7年(1824)10月7日、京を発った山陽は、9日摂州路、13日片上駅、15日黄葉(こうよう)村と西下し、18日に竹原に至った。このときに詠んだ詩である。
竹原で紺屋を営んでいた頼惟清の子春水(しゅんすい)・春風・杏坪(きょうへい)はいずれも学問にすぐれ、名を成したが、春風が竹原で医師をしながらとどまった。山陽は春水の子であり、大坂(当時)に生まれたが、父祖の地竹原をしばしば訪れた。叔父春風は山陽のよき理解者であり、山陽も春風を慕っていた。
山陽は、文政9年(1826)に「日本外史」22巻を出し、幕末の思想界に大きな影響を与えた。漢詩にすぐれ、文政8年(1825)までのものが、山陽自撰の「山陽詩抄」に、それ以後のものが、門人たちが編集した「山陽遺稿」に収められている。書画篆刻(てんこく)にも長じていた。
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