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山上憶良・和歌(やまのうえのおくら・わか)

うち日さず 宮へ上る(のぼる)と たらちしや 母が手離れ 常知らぬ 国の奥処(おくか)を 百重山(ももへやま) 越えて過ぎ行き 何時(いつ)しかも 京師(みやこ)を見むと 思ひつつ 語らひ居れど(をれど) 己(おの)が身し 労し(いとほし)ければ 玉ほこの 道の隈廻(くまみ)に 草手折り(たおり)  柴取り敷きて 床(とこ)じもの うち臥い(こい)伏して(ふして) 思ひつつ 嘆き臥せらく 国に在らば 父とり見まし 家に在らば 母とり見まし 世間(よのなか)は かくのみならし 犬じもの 道に臥してや 命(いのち)過ぎ(すぎ)なむ
たらちしの母が目見ずて欝しく(おぼほしく)
 何方(いづち)向きてか吾(あ)が別るらむ
出でて行きし日を数へつつ今日今日と 吾を待たすらむ父母らはも
一世(ひとよ)には二遍(ふたたび)見えぬ父母を
 置きてや長く吾(あ)が別れなむ
    (短歌2首省略)
 肥後の人大伴熊凝(くまこり)は、天平3年(731)、都へ上る途中病をえて、安芸国佐伯郡高庭の駅家で身を横たえ、老いたる両親の悲しみを心にかけながら死んでいった。筑前守山上憶良が、その熊凝の気持ちを彼に代わって詠んだもので、「万葉集」に収められている。
 高庭駅は、現在の廿日市市大野町高畑の地とする伝承があり、ゾウシガダニやワラゴヤは駅家の「蔵司」や馬の飼料の「藁」にちなむとの推定がされている。
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