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鞆の錨(とものいかり)

 江戸時代の初めイギリスの平戸商館が、シャム(現在のタイ)国王の注文で、鞆で鉄一万二千斤(きん)を購入したことが、当時の商館長リチャード・コックスの日記にみられ、寛文12年(1672)に川崎屋次郎左衛門が、鉄錨六頭を錨問屋松尾九郎左衛門に注文した旨の古文書も残されている。
中世に芦田川流域では、中国山地の砂鉄を運んで、芦田物と称する刀鍛冶が存在した。戦国時代には、その河口の草戸や水呑、さらに鞆に住みついて、『古刀銘尽』や『銘鑑類』には、鞆鍛冶の名がみられ、「備州鞆住」と彫(ほ)り込んだ多くの刀工の作品が遺存している。
また明との勘合貿易にも、鞆からは大量の刀剣類が輸出されている。
江戸時代には、武器を作っていた刀鍛冶屋は港町にふさわしく船具の錨や舟釘を作り、鍛冶町を形成し、鍛冶旦那のもと親方弟子の集団が盛んな生産を行って、鞆の港から全国に販路を広げていった。
特に錨は、尾道とともに国内市場の90パーセント以上を占めていた。
明治以後、時勢の移り変わりにしたがって、船具のほかに鉄道の軌条用金具を生産し、大正時代以後は、鉄筋コンクリート骨材の伸鉄、滑車、建築用素材とあらゆる鉄製品が、鞆鉄鋼団地に集まった数十軒の工場から生産されている。
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