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むしろ機(むしろばた)

 中世の埋れた町草戸千軒から、いろいろな民具が掘り出された。その中で中央を削ってへこました小さな棒状の木片が出ている。それは筵(むしろ)を編む「つちのこ」に似ている。この、つちのこに麻糸を巻きつけて、藁(わら)をはさんでは前後にかがりつけてゆく道具で、むしろ織り機の最も原始的な部品である。
長禄4年(1460)の『大乗院寺社雑記』の中に、「備後筵(むしろ)十枚代一貫二百文・此外備後表二十枚」とあるのが備後表が文献にみられる初見である。この表は藺(い)草を編んだ畳表のことであろうが、これと区別して備後筵とあるからには別種のものであろう。
文明12年(1480)に備後坪生庄から領家に送る年貢のことを記した文書に「毎年年貢三千五百疋・筵等也」とあり、さらに備後山南庄から「御荘筵」が鎌倉幕府や本願寺に献上されている。だから、この筵を編む機が存在していたことは当然で、この筵が畳表であったかどうか別として、中世すでにむしろ機の精巧なものが作られ、後に中継表ができたのも両方から指竹で藺草をさしてつなぐ機(はた)が存在していたことを物語っている。そしてこの手仕事の地機(ぢばた)といった織機から高機(たかはた)に、さらに機械機(ばた)に、動力織機にと明治以降急速に変遷しているのである。
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