広島県の文化資源画像

松永の下駄(まつながのげた)

 「塩が下駄を生んだ」といえようか。かつて日本一の生産高を誇った松永下駄は、実は明治10年代、塩田に潮を引き入れる入り江のそば、下駄屋の主人丸山茂助が、塩を運ぶ船の帰路の空荷に着目したところから始まった。この片荷に山陰の雑木アブラギリを乗せて格安に仕入れ、入り江に筏(いかだ)に組んで貯木し、入用な分だけ製材して桐(きり)下駄に替えたのである。まさに塩が松永下駄を生んだといえよう。
松永下駄が全国に普及するようになったのは、桐下駄に比べ、雑木が原料で安価であり、しかも見かけは桐下駄に似て、なおかつ強く永持ちするからであった。そして原木の製材から下駄への小割りに至るまで、早くから機械化したことで、大量生産が可能となり、仕上げだけが手仕事だが、加工も分業化した。これに応じて、工場が塩田の入り江の周辺に立ち並び、ついに下駄の町松永を形成したのである。
原木もアブラギリから、北海道のツブやドロノキ、さらにサハリン、中国東北部やアメリカ大陸へと広く海を越えて材木を求め、雑木による格安の大衆下駄の生産を図り全国に売り出した。
また生産様式の変化に即して、下駄に限らず広く履物の生産へと転進したが、今も素足に履く下駄のさわやかさと解放感とに支えられて、松永下駄は多くの人に愛用されている。
06022.jpg

メモ

日本はきもの博物館は、松永下駄の今日を築いた丸山工場の創業百年を記念して開設され、下駄産業の歴史的な変遷の資料を展示するとともに、広く世界のあらゆる種類の履物を収集展示している。履物に関するあらゆる情報、記録のセンターとして、わが国最初の履物専門博物館である。
また構内には大正のころから、手仕事で下駄の仕上げを行っていた職人の住んでいた住宅の一部が移建され、当時の暮らしを再現し展示している。
郵便番号-
所在地福山市松永町
文化財指定指定なし
地 図周辺地図情報はこちらをクリック

お問い合せ

お問い合せ先-
郵便番号-
所在地-
TEL-
FAX-

前のページへ戻る